NTTDATAグループカレンダー2025文献解説
受け継がれる世界の叡知―バチカン図書館―「進化と調和の羅針盤」
心を育む文学書、文明の発達に寄与する科学書、思考を深める哲学書など、人々はさまざまな書物によって見識を広げ、新たな一歩を踏み出す力とすることで社会の進歩を支えてきました。
そのような役割を担ったバチカン図書館所蔵の歴史的図書を紹介します。
長く読み継がれる書物が伝え続ける知が、未来の可能性を見出し、「進化と調和の羅針盤」となって、より豊かで調和のとれた社会の実現に貢献していることを表現しました。
1月
プラウトゥス『アンピトルオ』
11世紀 Vat.lat.3870
ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス(前254頃−前184)は古代ローマの喜劇作家で、その生涯はイタリア・ウンブリアの小村サルシナ出身であること以外に確かなことはわかっていません。若くしてローマへ上り、演劇関係の仕事で金を蓄えたものの事業に失敗して失い、粉挽き屋で働きながら劇の創作を始めたといわれています。プラウトゥスの作品は、シェークスピア作品の種本となった『メナエクムス兄弟』のほか、『黄金の壺』、『捕虜』など21編が伝えられています。これらは、当意即妙の洒落や辛辣な風刺などが織りなす、活気に満ちた物語となっています。
とりわけ評価が高い悲喜劇『アンピトルオ』は、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの誕生を題材にしたパロディーで、喜劇的な部分と悲劇的な部分を備えています。主人公である将軍アンピトルオになりすました神ユピテル(ゼウス)は、アンピトルオの出征中にその妻アルクメナと情事におよびますが、アンピトルオが帰還し大騒ぎとなります。その後、双子(一人はヘラクレス)が生まれてユピテルは神の姿を現し、すべてが了解されて幕となります。大変な人気を博し、17世紀フランスの劇作家モリエールをはじめ数々の作家により翻案が続けられている、劇作の進化の礎となった作品です。
2月
ルキアノス『本当の話』
9~10世紀 Vat.gr.90
ルキアノス(120頃−180頃)は、ローマ帝政期に活躍したシリア生まれの風刺作家です。幼い頃に石工か彫刻家の見習いになったものの仕事をやめて、ギリシア語を学び弁論家となりました。ギリシア、イタリア、ガリアなど各地を、時には修辞学的作品の朗読などをしながら旅しました。40歳頃からアテナイ(現、アテネ)で作家生活に入り、風刺的対話という新たな文学形式を編み出しました。晩年にはエジプトで官吏を務めたといわれています。著作には『神々の対話』、『死者の対話』などのほか、迷信や、実りのない議論に明け暮れる哲学者の名誉欲や金銭欲を風刺したものなど70~80編があります。
本当なのは自分が嘘をついているということだけだと宣言する『本当の話』は、荒唐無稽な旅行記や冒険物語のパロディーで、真実らしく見せかけて嘘を語る著作を風刺したものです。陸、海、空にわたる空想上の冒険物語で、月世界や鯨の腹の中などの旅が綴られます。独創性と構想力に優れ、人間世界の矛盾や愚かしさを笑いとともに描き出したルキアノスが、その円熟期に創作した作品です。後にシラノ・ド・ベルジュラックの『日月両世界旅行記』やスウィフトの『ガリバー旅行記』など多くの空想旅行記が生まれる源となり、文学の進化に大きく貢献しました。
3月
アウグスティヌス『告白』
15世紀 Vat.lat.460
神学者、哲学者、ラテン教父として名高いアウレリウス・アウグスティヌス(354−430)は、北アフリカの小村タガステで生まれました。カルタゴに遊学し修辞学を学びましたが、19歳の時にキケロの哲学書『ホルテンシウス』(「哲学のすすめ」)を読んで哲学の追求に目覚めました。初めはマニ教徒となり、後に新プラトン主義などを経て、キリスト教に回心しました。4世紀末にはアフリカのヒッポの司教となり、西方キリスト教会の精神的支柱として異教の徒に対抗しました。キリストの教えの中に古代の思想を見事に調和させ、哲学的著作、神学的著作など膨大な書物を残しています。
4世紀末頃に執筆された『告白』全13巻は、回心に至るまでの半生の回顧を中心として、母の死までの自身の生き方を省察した自伝的著作です。1~9巻は自伝的内容、10巻は現在における神探求(記憶論)、11~13巻は創世記冒頭の解釈を通じて将来の生を論ずる(11巻は時間論として著名)という構成です。1~9巻は自伝的内容とはいえ単なる伝記にとどまらず、人間一般に対する神の愛と導きの記録であり、その賛美になっています。また、告白文学の類型を示した書でもあります。『告白』をはじめとするアウグスティヌスの著作の影響は中世ばかりでなく、現代に至る各時代の思想形成にまで及んでいます。
4月
セビリャのイシドルス『語源集』
14~15世紀 Urb.lat.479
セビリャのイシドルス(560頃−636)は、スペインの神学者、聖職者、著作家です。カルタヘナまたはセビリャに生まれましたが、若くして両親を亡くし、後にセビリャの司教を務める兄がいた修道院で教育を受けました。イシドルスも兄の後を継いで司教となり、カトリシズムの拡大やユダヤ教徒の改宗、学校・教会の建設など、スペインのカトリック教会の基盤づくりに力を注ぎました。著作は、さまざまな知識の宝庫として中世にしばしば利用されました。神学、歴史、文学、科学など多くの分野で多数の書物を著し、キリスト教の教義や実践の手引書である『命題集』全3巻や、歴史書の『大年代記』などを残しています。
当代一の知識人と称賛されたイシドルスの主著である『語源集』全20巻は、自然、人間、神、国家などに関するさまざまな事象を記述した、百科事典的な内容となっています。その記述には名称、とりわけその語源への強い関心がうかがえます。古代の書物からの抜粋集であり、取り上げている分野は、文法、修辞学・論理学、数学、音楽、天文学、医術、法学、聖書、神、教会、言語、民族、社会、人間、動物、宇宙、地球、建造物、金属、農耕、戦争、造船、服飾、食品というように多岐にわたります。本書は、中世の図書館の参考書となるなど西欧に広く流布し、後世の社会の進化に大きな役割を果たしました。
5月
リウィウス『ローマ建国以来の歴史』
15世紀 Urb.lat.424
ティトゥス・リウィウス(前59−後17)は、古代ローマの歴史家で、北イタリアのパタウィウム(現、パドバ)に生まれました。その生涯の詳細は明らかではありませんが、長くローマで過ごし著作のおかげでアウグストゥス帝に厚遇され、皇帝側近の文人グループに属したようです。公職には就かず、軍務や政務に従事した様子はありません。歴史の記述を政治家が行うことが一般的だった時代に、生涯、著作の執筆に力を注いだ稀有な人物です。
『ローマ建国以来の歴史』は、ローマ建国から大ドルススの死(紀元前9年)までを記述した、全142巻に及ぶ、ローマ国民を称える記念碑的著作です。40年余りを費やして書き上げましたが、現存するのは第1巻~第10巻および第21巻~第45巻の35巻(一部欠)です。失われた部分の内容は、伝えられている4世紀のものとされる各巻の「綱要」(第136・137巻を除く)などによって知ることができます。
流麗にして変化、技巧に富む文章は、ラテン文学黄金時代の傑作の一つとされています。ルネサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリが『ティトゥス・リウィウスの初篇10章にもとづく論考』(邦訳は『政略論』)を著すなど、後世に読み継がれ文学や思想の進化の助けとなりました。
6月
ゲッリウス『アッティカの夜』
15世紀 Urb.lat.309
アウルス・ゲッリウス(123頃−170頃)は、ローマ帝政期の著述家です。青年時代にローマで法律と修辞学を修めた後、修辞学者のファウォリヌスらに師事し、また修辞学者のフロントからも影響を受けました。その後、アテナイ(現、アテネ)に遊学しプラトンおよびアリストテレスの哲学を学びました。その頃、著名な弁論家のヘロデス・アッティクスや哲学者のペレグリノス・プロテウスなどと親交を結びました。
『アッティカの夜』全20巻は、ゲッリウスがアテナイの田園部のアッティカに滞在した冬の夜の間に文献資料の収集を始め、長期間作業を続けて、自分の子どもたちのためにまとめたものです。第8巻を除く19巻が現存しています。主題はきわめて広く、歴史、哲学、法律、文学、文法、言語、宗教、自然科学などあらゆる分野にわたっています。ギリシアやローマの古い作家たちの多くの資料を含み、これによってのみ知ることのできる作家も多い貴重な文献です。アウグスティヌスやエラスムスが愛読したほか、19~20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーの『アンドロクリーズとライオン』もこの書から題材をとっているように、後世の文学の進化に大いに寄与しています。
7月
スエトニウス『ローマ皇帝伝』
16世紀 Pal.lat.896
ガイウス・スエトニウス・トランクィルス(70頃−130頃)は、ローマ帝政期の伝記作家、歴史家です。北アフリカで騎士の家柄に生まれ、ローマで教育を受けました。文人政治家小プリニウスの知遇を得て、ハドリアヌス帝の秘書官などを務めましたが、皇帝の寵愛を失い罷免され、その後は研究と著作に専念しました。現存する著作は伝記の2つですが、伝記以外にもさまざまなテーマに取り組みました。『名士伝』は、詩人、雄弁家、歴史家、文法家、修辞家などの伝記で、大半が散逸しその一部(テレンティウス、ホラティウス、ルカヌスなど)が残されているだけです。
主要著作の『ローマ皇帝伝』全8巻は、ユリウス・カエサル、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスという12人の皇帝の伝記です。著作のほぼ全体が現在に伝えられています。皇帝の家系から始まり皇帝になるまでの経歴、皇帝になって以後は人物像を中心に記述されています。数々のエピソードが簡潔、平明な文体で正確、公平に綴られ、3世紀にマリウス・マクシムスが続編を書いたのをはじめ、中世、近世を通じて伝記文学の模範となりその進化を支えました。
8月
カエサル『内乱記』
15世紀 Vat.lat.1830
ガイウス・ユリウス・カエサル(前100−前44)は、ローマ共和政期の政治家、将軍。名門出身で、英語名はシーザーです。ガリアの地方長官在任時にガリアを平定し、古典文化をヨーロッパ内陸部にまで広め、西欧文化圏成立の基礎をつくりました。また、元老院の保守派との内乱で勝利を収めて権力と栄誉を一身に集め、世界的な視野で社会的、政治的な変革を実行しましたが、共和政ローマの伝統を破壊する者と見なされ暗殺されました。ギリシア・ローマの歴史を大きく変えた偉大な政治家で、将軍、文人としても第一級の人物と評価されています。
『内乱記』全3巻は、『ガリア戦記』全8巻(第8巻は部下が執筆)と並び称される著作です。前49年の内乱勃発から前48年の敵方ポンペイウスの死に至るまでの経過が記述されています。自身が同胞市民に対してあえて武器を向けたことを弁明するために執筆されましたが、その記述は冷静です。カエサルは、政敵の過ちを描いた本書を自らの手で出版しませんでした。これは寛容をモットーとしていたからと見られます。簡潔な文体、的確な現実把握などによりラテン文学の傑作と称賛され、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、ニーチェなど名だたる文学者を魅了し、文学の進化の大きな礎を築きました。
9月
ボエティウス『音楽教程』
12世紀 Reg.lat.1005
アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(480頃−524頃)は、古代ローマ末期の哲学者、政治家です。ローマ貴族の名家出身で、東ゴートの王テオドリクスに仕え執政官などを務めました。しかし、東ローマ帝国と東ゴート王国との対立に巻き込まれ、東ローマ帝国に内通したという罪に問われて、幽閉、処刑されました。パヴィアの獄中で韻文と散文により綴られた『哲学の慰め』全5巻は、哲学の入門書として広く読み継がれています。このほか、アリストテレスの論理学の紹介をするなど、中世の思索の糧となる著作を残し、ギリシア哲学とキリスト教を調和させようとしたと評価されています。
ボエティウスは、哲学研究の予備的教養として算術・音楽・幾何学・天文学を学ぶべきだとして、この4科の入門書を著したとされていますが、現在まで伝わっているのは『音楽教程』全4巻と『算術教程』全2巻の2著作です。『音楽教程』は、ピタゴラス以降の音楽理論を集大成しながら適切な考察を加えています。「協和・不協和」、「音程と旋律」、「オクターヴ」、「全音と半音の関係」など、音の性質を体系化し数学的に解明したことに大きな意義があります。西洋音楽の基盤として中世には教科書となり、その後の音楽理論に絶大な影響を及ぼしました。
10月
アプレイユス『黄金の驢馬』
14世紀 Vat.lat.2193
ルキウス・アプレイユス(123頃−170以降)は、北アフリカのマダウロスの裕福な家に生まれた、ローマ帝政期の小説家、哲学者、修辞学者です。修辞学、哲学などを修めた後、ギリシアや小アジアなどを旅行し、神秘宗教や魔術に接しました。しばらくローマに滞在し、結婚して北アフリカのカルタゴに居を構えて以後は高名な人物として市民の敬愛を受けながら過ごしました。著作には、結婚をめぐり訴えられた際の反論『弁明』や、自身の演説を抜粋した『フロリダ』のほか、『ソクラテスの神について』、『プラトンとその教説』などがあります。
『黄金の驢馬』(原題は「変身物語」)全11巻は、完全な形で伝わるローマ時代のラテン語小説で、鋭い風刺と美しい修辞で綴られた傑作です。魔法に熱中しているルキウスという青年が、フクロウに化けるつもりが誤って驢馬の姿になってしまい、さまざまな主人の手に渡り世知辛い経験をいやというほど味わった後、逃げて女神イシスの力で人間の姿に戻るという内容です。社会の悪や裏面を容赦なく描き、波乱万丈の冒険物語としても面白く、中世のボッカッチョや近世のセルバンテス、さらには近代の文学者にまで並々ならぬ影響を与え、文学の発展に貢献しました。
11月
伊達政宗「ローマ教皇宛書簡」
17世紀 Borgh.363.pt.B
伊達政宗(1567−1636)は、安土桃山~江戸時代初期の大名で、仙台藩の祖です。米沢城主伊達輝宗の長男として生まれ、天正12年(1584)に家督を相続しました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、徳川家康から刈田郡を与えられ、翌年仙台城と城下の建設に着手し慶長8年(1603)に移りました。寛永3年(1626)には北上川の土木工事を完成させ、仙台藩の米作と江戸廻米の基礎を築きました。また、和歌や茶道、能楽などの文化に通じ、能書家としても知られています。幼い頃に右眼を失明したことから「独眼竜」と呼ばれ畏敬された人物です。
仙台藩主だった伊達政宗は、慶長18年(1613)スペイン国王、ローマ教皇のもとへと家臣の支倉常長らを大使とする慶長遣欧使節を派遣しました。「ローマ教皇宛書簡」は伊達政宗がローマ教皇パウロ5世に宛てた親書で、和文とラテン語文が用意されました。書簡には、領内への宣教師派遣の請願、メキシコとの交易のためのスペイン国王への仲介の依頼が記されています。これに対する回答は前向きではあっても検討するというものでした。いずれにしろ幕府のキリシタン禁制が強化され目的を果たせませんでしたが、日本とローマ教皇庁との外交史に残る出来事となりました。
12月
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』
15世紀 Urb.lat.415
フラウィオス・アッリアノス(95頃−175頃)は、ローマ帝政期の政治家、歴史家で、小アジア、ビテュニアのニコメディアの出身です。哲学者のエピクテトスの弟子で、師の教えを編み『語録』全8巻にまとめ刊行しました。また、ローマ帝国辺境に積極的な施政を行ったハドリアヌス帝の信を得てローマの執政官となり、次いでカッパドキアの総督を務めました。総督を退任した後は、公職から離れアテナイ(現、アテネ)で教養人としてゆとりのある生活を送ったと考えられています。ギリシア語で執筆活動を行い、著作には『インド誌』、『ビテュニア誌』全8巻、『パルティア誌』全17巻、『狩猟論』などがあります。
『アレクサンドロス大王東征記』全7巻は、ヨーロッパからアジアにまたがる大帝国を築いたアレクサンドロス大王(前356−前323)の即位から死に至るまでを、紀元前4世紀の東征を中心に記述。大王にまつわる虚実さまざまな事柄を正して、等身大の人物像を描くよう努め、その業績を広く顕彰しようとした著作です。前336年20歳でマケドニア王の座についた大王が、ギリシアを支配した後、前334年にペルシア遠征に出発、シリア、エジプト、ペルシアを征服、さらにインドに進撃していく経過を慎重かつ公正に記述しました。大王に関する貴重な文献と見なされ、後世の歴史研究の進化の力となりました。