「脳化社会」の構造
戦時中、4歳のときに父を病気で亡くし、以来兄と姉と私の3人は母に育てられました。母は小児科医で、95歳で亡くなるまで現役で診療していました。いわゆるグレートマザー(※1)で、子供にとっては母親のつくる世界が自分の世界だし、特に男の子は母親の影響を無視できませんからね。いくつになっても壁でした。
小学2年生のとき、鎌倉で終戦を迎えました。これが人生で最初の大きな転機でした。敗戦を知ったその瞬間、私が思ったのは「だまされた」。それまで先生も親も親戚も、みんな日本が勝つと言っていたし、日本中が「無敵皇軍」を信じていたんですから。それが、教科書の軍国主義的な内容の箇所は黒く塗り潰させられ、昨日まで大事に教え込まれていたことが、たった1日できれいさっぱり消されてしまった。社会が変われば価値観なんて簡単に覆る。だから私の世代は、社会的なことには非常に不信感が強いんですよ。
大学では、最初は精神科志望でしたが、中井準之助先生(※2)との出会いを機に解剖学に進みました。助手になり、研究が面白くなり始めた矢先、大学紛争が起こった。研究者としてこれから軌道に乗ろうとしていたのに、研究室が封鎖され、1年間何もできなくなってしまったんです。
大学の御殿下グラウンドに竹槍を持って集まった全共闘に敵対する民青の学生の姿を見たとき、馬鹿なことをやってるな、日本は変わらないなと思いました。団塊の世代だから完全に戦後生まれなのに、戦中の軍国主義と同じなんですよ。無意識の内に、戦後の民主主義が戦前の皇国思想をそのまま受け継いでいる。それはいまでも変わっていないと思っています。北朝鮮は戦争中の日本がそのまま共産主義になった国ですからね。他人事じゃありません。
30年前、私は『唯脳論』で、都市は「脳化社会」であると述べました。動物は「感覚」世界が優先するのに対し、人間は「意識」世界が優先する。それによって生じるのが意識的社会です。それは「ああすればこうなる」と計算や理論で予測可能な社会。予測やコントロールができないものは排除する。そうして出来上がったのが脳化社会です。
動物や小さい子供は、感覚で「違い」をとらえています。そしてその感覚は、年を取るほど失われていきます。例えば、奥さんが美容院で髪型を変えてきたとしますね。子供は学校から帰ってくると「あ、お母さん美容院に行ったでしょう」と気づく。ところが旦那のほうは、会社から帰ってきても何も言わない。それを世の奥さんは愛情が薄れたとか言うんですが、そうじゃない。大人は視覚的な変化、つまり「違い」を無視してしまうんです。青いペンで「白」と言う字を書いたら、誰でも「シロ」と読むでしょう。それは青という視覚的な感覚を平気で無視しているからです。それが人間なんです。動物はどんな字を書いても青としか認識しませんよ。
人間の社会には「同じ」つまり「イコール」の概念があります。しかし動物にはイコールがありません。「朝三暮四」という四字熟語がありますね。宋の狙公が飼っていたサルに、どんぐりを朝3つ、夜には4つやると言ったら、サルが少ないと怒った。では朝4つ、夜3つやろうと言うと喜んだという話です。動物には等価交換がわからない。つまりイコールがない。「A=BならばB=Aである」ということが、感覚を優先する動物には理解できないんです。
「同じ」という機能を獲得したヒトは、言葉やお金、民主主義を生み出し、世界を「意味」で満たそうとしてきました。それを突き詰めたのが都市社会です。オフィスの中では風は吹かない、雨も降らない。屋内はエアコンで一定の温度に保たれ、床は平坦で、堅さはどこも同じ。恒常的な環境をつくるため、違いを主張する感覚所与(※3)をできる限り遮断する。山に入れば虫がいたり、石ころが転がっていたりするのは当たり前ですが、都会の生活では邪魔以外の何ものでもない。意味のあるものだけに囲まれていると、いつの間にか意味のないものが許せなくなってきます。それは裏を返せば、すべてのものには意味がなければならないということであり、「意味がわからない」ものは「意味がない」と結論づけて切り捨ててしまう。そこにいまの社会が抱える問題の根本があると思います。
こうした社会が進むと、要求が高くなるのがアートです。殺伐とするから、ふと人間に戻った瞬間、何か足りないなと思うんですね。アートというのは感覚ですから、同じものはひとつもない。アートは、感覚を排除して「同じ」に立脚した社会の解毒剤なんですよ。
- ※1グレートマザー
- ユング心理学における元型のひとつで、普遍的で根源的な母性のイメージの象徴。優しく包み込み、慈しみながら守り育てる一方で、自らの内に押さえつけ、呑み込み破滅させる側面も持つ。
- ※2中井準之助(1918 ―2004)
- 解剖学者。東京大学名誉教授、筑波大学名誉教授。神経組織培養研究の第一人者であり、日本解剖学会理事長、国際解剖学連合会会長などを務めた。紫綬褒章(81)、勲二等旭日重光章(91)。
- ※3感覚所与
- 哲学用語で、感覚器に入ってくる第一印象を意味する。与えられたままで、思考によって加工されていない直接的な意識内容。
脳と人工知能の位置づけ
人間は「同じ」にすることによって、世界をどんどん単純にしています。なぜかといえば、面倒くさいから。番号ひとつあれば、本人はもう要らない。マイナンバーに抵抗があるのは、個人情報の悪用に対する不安など理由はいろいろあるでしょうが、根本は「生身の自分」と「情報としての自分」の社会的な折り合いの問題ではないかと思います。
5、6年前、銀行に行って手続きをしようとしたら、本人確認の書類提出を求められたことがあるんです。私は運転免許は持っていないし、病院に来たわけじゃないから健康保険証も持っていませんでした。そうしたらその銀行員が「困りましたね」と言う。よく行く地元の銀行ですから、その人も私本人だとわかっているんです。ここにいるのは間違いなく養老孟司なのに、なぜ養老孟司と認識されないのか。そのとき考えたんですよ、「本人」って何だろうと。
それから数年して答が出ました。本人は、いまや「ノイズ」です。コンピューターに入らない。だから病院に行けば医者は患者を診ずにパソコンの中のカルテしか見ない。銀行も本人は要らない。本人の情報さえあればいいんです。本人確認の書類をロボットが持ってきたらどうするのか。たぶん、それでもいいんでしょうね。本人が行くと、顔色や機嫌、声、匂いなど、すべてが感覚所与、つまりノイズなんです。
会社で同じ部屋で働いているのに、上司や同僚にメールを送り付けるのもそれと同じで、ノイズを落としているんです。ノイズが入っていると処理しきれないんですよ、自分もコンピューターに近づいてしまっているから。だから生身の人間と付き合うのが苦手な若い人が多いでしょう? 結婚しない人が増えているのも当たり前で、結婚はノイズと生涯を共にするようなもの。その上、子供が出来れば、子供はノイズそのものですからね。それが現代社会です。
パソコンやスマートフォンに象徴されるように、脳化社会はますます進行しています。コンピューターは脳そのものですからね。脳の機能全部ではなく、おそらくいちばん新しく脳の中に出来た計算機能を最大限に使って、外へさらに広げたもの。最近ではコンピューターが人間の社会を置き換えると言われていますが、馬鹿げています。脳の特定の機能をコンピューターに置き換えるほうがよっぽどいい。脳味噌なんて世界に70億もあるんですから、いまさら脳をつくるより、脳をバージョンアップしたほうがいいに決まっています。コンピュータに出来ることを人間がする必要はないんですよ。100m走をオートバイと競う人がいますか? 計算するのに特化した、0と1の二進法のアルゴリズムで動く機械と、人間が競う必要はありません。人間がコンピューターと将棋を指すなんて、あんなことはやっちゃいけないんですよ。あほらしい。いずれはコンピューターが勝つに決まっているんですから。それをコンピューターが偉いと思うのは間違いで、それならオートバイは偉いということになる。私たちは時速100㎞で走れませんからね。
脳と人工知能の最大の違いは、脳は背景に体が付いていること。脳は体の一部なんです。コンピューターに付いているのは人間ですから、人間を外したってコンピュータは何ともない。だから最近はディープラーニングをさらに進めて、コンピュータが自分自身のソフトを改良するようにしようという話も出ています。そうなってくれれば人間は要らないだろうと。
おかしいと思いませんか? 人間が生きていて、機械という道具を使っているのに、なぜ逆転するのか。銀行が今後10年で数十万人リストラするといっています。みなさん、そのときにどう思うでしょう? コンピューターが進化するとリストラされるような仕事をやらされていたことがおかしいと思わないですか? 人間が生きるということは、そういうもんじゃないでしょう。
「手入れ」という共生の思想
脳だけ先に行ってしまうと、体が付いていかずに置いてけぼりになる。しかし、意識というのは体の言いなりなんです。朝起きようと思っても目覚ましをかけなきゃ起きられないし、夜寝るときも誠心誠意寝ようと思ったら目が覚めちゃう。気を失っていた人の意識が戻るのは、意識が自分で戻ろうと思ってそうなるわけじゃない。
意識は、出てくるのも引っ込むのも、自分の意思じゃないんです。眠っている間は意識なんてないのに、出てきた瞬間、自分がいちばん偉いと威張っている。体を動かしているのは自分だと思っているから、出てきた瞬間に運動系の働きがまだ目覚めていないと、いわゆる金縛りの状態が起きて、パニックを起こしたりする。意識は覚めているのに体が動かないものだから、びっくり仰天するわけです。反対に知覚系の働きが目覚めていないと、金縛りの逆になる。つまり、知覚系が眠っているので外からの情報が意識に上らず、夢見ているときの脳の中の状況がそのまま現実になる。それが白昼夢です。
意識とは秩序活動です。意識は無秩序なことができない。意識的にでたらめなことはできないんです。秩序的な働きというのは、エントロピー増大の法則(※1)に基づき、必ず無秩序、いわばゴミを発生します。だから眠っている間にゴミの処理をする。そうしないと脳の中にはゴミがどんどん溜まってしまいますから。つまり秩序は、同量の無秩序と引き換えでないと手に入らない。文明は秩序そのものですから、自然破壊の本質もそこにあります。
意識には科学的な定義はありません。エネルギーでもなければ電気でもない。わからないんですよ。そもそも眠っている間は意識がないというだけでも、意識には限界があると考えたほうがいい。現代社会の根本を成す意識とはそういうものなんだと、私たちは知っておくべきでしょう。
できることはやる、というのは人間の悪い癖です。不要な行為をするんですよ。三陸海岸の巨大な防潮堤がいい例です。できるものだから、やらないといられない。やらなくたっていいじゃん、というその辛抱ができない。生物業界なんて、受精卵ないしはそういうものの扱い方について、しょっちゅう揉めています。中でも最大の問題は、ヒトの遺伝子の導入でしょう。ヨーロッパは法的に禁止、アメリカは規制、日本はアメリカと同じ。規制がまったくないのが中国、インドです。その内、遺伝子導入された人間が中国から出てきますよ。最近では脳と人工知能の接続を目指している人もいますね。体を改造するというのは昔からやっていることですが、あまり賛成できません。生き物は生き物として放っておく。そのほうが安全です。
脳化社会がここまで進んだいま、私たちに必要なのは「手入れ」の思想だと思います。もともと人間はそうやって生きてきました。子育てもそうだし、自分自身の体についてもそう。庭だってそうです。人間の体や草木などのように「意識」でつくれないものはすべて「自然」であり、自然と付き合うには「ちょっとだけ」手を入れることが大事なんです。里山は自然のままの状態で存在するのではなく、草を刈り、枝を掃うことによって保たれています。バランスを崩しやすいシステムに、加減を見ながら手を加えることによってシステムを維持し、その中で共生していく。そういう自然との折り合いに対する概念が、日本には昔からあるんです。何もしない荒れ放題の自然より、人間が手入れした自然にこそ豊かな生命が宿るということを、日本人は知っているはずです。
手入れは、相手を自分の脳を超えた存在であると認め、相手のルールを理解することから始まります。それに対し、相手を自分の脳の中に取り込み、脳のルールでコントロールしようとしてきたのがいまの社会。自然が思い通りになるわけがないし、脳がすべてを理解できるわけがない。そのことに、人はそろそろ気づき始めているんじゃないかと思います。
※この記事は、当社広報誌『INFORIUM』第9号(2018年5月23日発行)に掲載されたものです。
- ※1エントロピー増大の法則
- エントロピーは、熱力学における秩序の度合いを示す物理量を表し、「乱雑さ」とも呼ばれる。無秩序であればあるほどエントロピーの値は大きくなり、宇宙は常にエントロピーが小さいほうから大きいほうへ、すなわち秩序から無秩序へ向かうという、不可逆的な時間の流れを示した法則。