ユーザーエクスペリエンス時代の越境力
100個のプランより1回の体験を
インターネットやITの普及により、従来の価値観で定められた領域の垣根が低くなり、さまざまなモノがシャッフルできる情報環境にある現代。商品やサービスそのものの価値から、それを利用することの体験価値に重きを置くユーザーエクスペリエンス(※1)の重要性が高まっている。
田川氏は、従来のエンジニアリング領域にユーザーエクスペリエンスからのアプローチで、今までにない新しいビジネスを生み出す第一人者。そこにはどのような考えがあるのか。
代表的な仕事として、経済産業省の地域経済分析システム「RESAS(リーサス)」のプロトタイプができ上がるまでを語ってもらった。
「RESAS」は、地方創生の場面で実行可能な施策やプランをつくるためのオープンなWebサービス。新型交付金(地方創生推進交付金)に基づく計画を立てる際、ファクトベースのマイルストーンとしてKPI(重要経営指標)を設定するときに役立てられている。
「ビッグデータをビジュアライゼーションするためのシステムで、もともと中小企業庁のプロジェクトでした。でも、誰も作ったことのないシステムなので、そもそも仕様が書けない。そのような状況の中で、手探りでもプロジェクトを進めることのできるパートナーとして僕たちが選ばれたんです」
takramはプロジェクト開始から2カ月半後に、RESASのプロトタイプをプレゼンテーションした。
「この段階ではユーザーの目に触れる、体験的に重要な部分だけを仮実装した状態で、中身はがらんどうです。でも、プロタイプをつくるのは『デザイン思考』における基本のキ。考えているプランを100回見せるより、実際に動くものを1回体験してもらった方がコミュニケーションは早い」
プレゼンテーションが成功して、プロジェクトは経産省の中でも注目を集め、最終的には内閣府の地方創生のプロジェクトの柱のひとつへと成長した。
「誰も見たことのない新しいサービスを進めていくには、プロトタイプを提示することが、合意形成のスピードを早めるうえでの重要な鍵。まさに『百聞は一見にしかず』です」
BTC型の人材を結び付ける
こうした仕事を実践するにあたって、必要となる人材要件とはどのようなものなのか。
「三角形の『BTC型人材モデル』を頭に入れておくと分かりやすいです。ビジネス(B)、テクノロジー(T)、クリエイティブ(C)の三要素を有機的に連動させることで、イノベーションを生み出すアプローチです。BTC型人材・チームでは仮説立案・検証のプロセスを高速回転させ、ビジネスとテクノロジーをマーケットで受け入れられるものに昇華していきます」
「日本の産業界を見渡せば、どのセクターにもテック系(T)とビジネス系(B)の両方をハイレベルで理解している人材の層があります。彼らはエンジニアとして就職後にマネジメント層へ移って、経営能力を身に着ける。技術と経営の話を俯瞰で見ながら完璧に理解するBT型の優秀な人材が、日本企業を支えていました」
しかし、その能力が有効だったのは、「機能」「性能」「価格」という3要素で競争が決まった20年ほど前までの話だと田川氏は言う。
ポストITの時代になると、無料の検索サイトなどに代表されるように、どんどん「価格」の競争原理は希薄化。変わって台頭した要素が、ユーザーの「経験(エクスペリエンス)」だった。
「しかし、そのエクスペリエンスを扱う人材はBT型にはいません。たとえば最近、米MicrosoftがビジネスチャットのSlack(※2)を80億ドルで買収しようとしたという報道がありました。このSlackの立ち上げにもデザイナーたちが濃厚に絡んでいます。Instagram(※3)もそうでしたね。クリエイティブ(C)の人たちが存在感を発揮しているのが今日の状況です」
「ただ、クリエイティブ(C)の人材だけでビジネスはできません。先の例でも、デザイナーたちがビジネスのことを理解したり、テクノロジーを理解するなかで新しいものを生み出してきました。いずれにせよ、これから新しいプロダクトやサービスをつくるには、3つの能力を束ねることが重要です」
田川氏が客員教授を務める英国RCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)(※4)は、CとTを結ぶ「デザインエンジニア」の育成に力を入れている。
「デザインエンジニアは比較的、新しく出てきたハイブリッド型人材。コンセプトメイクやプロトタイピング能力に優れていて、ゼロから1を起こすイノベーションの能力に優れています。掃除機メーカーのダイソン社の創業者ジェームズ・ダイソン氏(※5)などが、デザインエンジニアの代表格です」
「彼は昨年に巨額の私費を投じて、800人にデザインエンジニアリングを教育する『ジェームズ・ダイソン・スクール・オブ・デザイン・エンジニアリング』をRCAに隣接するインペリアルカレッジ・オブ・ロンドンの中に設立したところです」
イノベーションへの行動原理
田川氏によれば、イノベーションを起こせる組織を観察していると、共通する2つの行動原理が見つかるという。
「1つは『越境性』。自分がBの人材であっても、Tにシンパシーがあるとか、Cの人やユーザー視点に興味があり、そうした専門家と会って話すのが好きでたまらないとか。『専門でないから人に任せよう』とはならず、どんどん人と話をして、その人から学んで自分に取り込もうとする行動。これは領域の間をジャンプする能力で、組織におけるXY軸の移動です」
「もう1つは『超越性』。組織ヒエラルキーの中で、自分を宙に持ち上げて超俯瞰するといった具合に、非常に広い視野で捉えられる人。例えば社長を廊下で捕まえて部屋に10分間引き込んで、自分がやりたいプロジェクトをプレゼンして事業化を果たしたとか、そんな行動。組織人としては怖いことですが、イノベーターはこのZ軸の移動を駆使しています」
組織内でイノベーションを起こすために、この後、田川氏はより具体的なアドバイスを展開していった。
ユーザーが製品やサービスを利用したときに得られる体験の総体のこと。外見などの第一印象や使ったときに受ける感情の変化までを含む。顧客経験価値、UXとも称される。
写真共有サービスFlickrを手がけたことでも知られる米国の起業家、スチュワート・バターフィールドが2013年に立ち上げたチャットツール。主に企業内のコミュニケーションツールとして使われている。
2010年にiOSアプリとしてリリースされた写真共有サービス。2012年からはAndroidにも対応。同年4月、Facebookが約10億ドルで事業を買収した。
1837年に官立デザイン学校としてロンドンに創立。1967年から独立した大学としての地位を獲得した。建築、美術、インダストリアルデザイン、テキスタイルなどを学ぶ約1,500人の学生が在籍。イノベーション・デザイン・エンジニアリングの修士課程は、隣接するインペリアル・カレッジ・ロンドンとの共同プログラム。
1947年英国ノーフォーク生まれの実業家、発明家、工業デザイナー、教育家。1993年にサイクロン式掃除機の開発・製造を手がけるダイソン社を設立。2007年に英王室よりSirの称号を授与されている。
夢を描いたままで終わらせない
失敗してもいい、は禁句だ
イノベーションにおける人材の重要性を強調する田川氏。話を聴いていたNTTデータの社員たちに、こんな質問を投げかけた。
「イノベーションを起こすプロジェクトは、いつも『個人』の思いからスタートします。ここで簡単ですが、奥の深い質問をしますね」
- あなたは「ドミノ(※1)の一枚目」になれますか?
- あなたは何ステップでそのドミノを1000枚まで増やせますか?
「何かことを起こすには、他の人をどんどん巻き込んでいく必要があります。ぜひ『二枚目のドミノ』を見つけてください」
「一人ではやれないことを実現するために、仲間を探しましょう。それが今日最大の目的です。『何を』より『誰と』にフォーカスをすること大切。細かいノウハウなどは、本を読んだりして、どんどん現場で試せばいいんです」
個人がチームとなった後には、さらなる戦略が必要になる。組織内でイノベーションを起こしたい人のために、田川氏はこんなアドバイスを送った。
「三枚目よりも先を倒すためのドミノを考えてみましょう。ドミノを倒していくために力となる大きなドミノは誰か。反対に、リスクセンシティブで絶対に倒れなさそうな人、つまり飛ばすべきドミノは誰なのか」
「そうしたドミノを倒すには、地盤を傾ければいいのかもしれない。あるいは強風を起こす。事業環境や競合を見据え、風の向いている方向にドミノを並べるのもいい」
イノベーションを波及させるドミノの理論は、参加者にとってイメージが湧きやすかったようだ。
「この中で『イノベーションには失敗が付き物だ』と考えている方はいませんか? 『失敗してもいい』は禁句にしましょう。『やるからには絶対に成功したい!』という強い思いがなければ、他のドミノが倒れてくれることはないんです。だから、個人の意識を言語化して伝えるのが欠かせません。ぜひイノベーションへの温度感を高めてください!」
実行可能なアクションに落とす
田川氏が大きなプロジェクトを実現するために大切にするのは、まず実行可能なレベルのソリューションに落とし込むことだ。
「究極的には、人類のため、地球のためという『ビッグアイデア』に連結している方が協力を得られやすいと思います。会社全体のため、というのもそうですね」
「その夢を、今度は目の前の一粒の砂のようなものに凝縮して転写する能力が必要です。つまり『実行可能な最小ソリューション(DMS=Deployable minimum solution)』への翻訳です。DMSの成功例が1つあると会社が動くことが往々にしてあるので、できれば短い時間に、急いでやってください」
具体例として、田川氏は自らが描く夢を披露した。
「イノベーターとして、僕が会社のビジネスとは別に今やっていること。それは、日本のイノベーションを加速させるために『世界最先端のデザインラボ』を東京につくってしまおうという試みです。民間と政府の皆さんに働きがけして、なんとか実現させたいと思います」
海外で仕事をしているうちに「日本人は日本人とばかり仕事しすぎ」だという問題意識が強く芽生えたのだという。
「ロンドンには世界中から人材が集まって来ますが、イギリスの社会課題を解いているのが彼らです。東京にも数十人の世界のデザイン人材が集まる拠点をつくり、日本のテクノロジーや素材を使って、日本の課題を解いてほしい。ここで年間50〜60個のデザインプロジェクトを展開したいです」
「日本に多様性を生み、クリエイティブな国にするのが僕のビッグアイデア。そのために、デザインラボの開設を目指したり、高度クリエイティブ人材を呼んだりする目的でビザの大幅緩和(※2)を提言するのも、僕のDMSなんです」
イノベーター集団としての発信
イノベーションを起こすために、どのようなアクションを実践していくべきなのか。田川氏からNTTデータの社員に対して、再びこんなメッセージが送られた。
「すでにアイディアをお持ちの方は、どんどん実践経験に移し、成功事例として出していくべきだと思います。いろんな非難や批判は受けるでしょうが、それなくして新しいものは起こりません」
「NTTデータという企業はインフラ事業に取り組んでいるせいか、外から見るとこれまではカッチリした堅いイメージが大きかったです。イノベーター集団として見えないのはもったいない」
「INFORIUMのような共創の場所も発信する力もあるので、皆さんが考えていることを高らかに叫んで、それがどんどん広まって『NTTデータって面白いこと考えている人が結構いるんだなぁ』と伝わるといい。またそれを継続的に行っていけたらいいですね」
ここではドミノ牌を立てて並べた列を倒していく、ドミノ倒しを指す。16世紀にヨーロッパの宮廷で流行したのは、ドミノ牌を倒すのではなく、並べた姿を鑑賞する遊びであり、そのうちに倒した動きの軽快な音や美しさを楽しむドミノ倒しに発展したとされる。
日本のパスポートの保持者がビザ(査証)免除で渡航できるのは153の国と地域(2016年5月現在)に上るが、日本にビザなしで入国できるのは67の国と地域(同)に留まっている。インバウンド(訪日観光客)の増大やクリエイティブ人材の誘致のため、観光ビザの免除、就労ビザの取得条件の大幅緩和を産業界が求めている。